
窓から差し込む五月晴れになりそうな朝の日差しに、私は少し目を細めながら手元のスカーフを
結ぶ作業にしばし集中した。
今日は山口さんの挙式の日。私にとって、この仕事について担当した方の初めての婚礼。
目の前の姿見にうつる、制服姿の自分を見ているようで見ていない、浮ついた自分がいた。
昨晩は夜の10時近くまで最終チェックをした。確認しても、確認しても、したりない。
婚礼の職員たちも、レストランの従業員も、カフェの従業員も、みな帰宅したあと一人で残り、
何度も資料をながめた。
それでも安心できない。
さすがに観念して帰ろうとしたとき、新堂さんからの電話が鳴った。
彼も、まだ職場で残業中らしく、少し疲れを声に滲ませながらそれでも自分の愚痴は一切
言わずに、彼らしく朴訥な様子で「美香、」と、気遣ってくれる。
そして、電話を切る前に、ポツリとこう言った。
「たくさんの人を幸せにする世話係りって、本人は案外骨が折れるよな。尊敬するよ」
あんなに約束を破ったのに。彼のことをうっかり忘れるくらい没頭する対象のこの仕事を
理解してリスペクトしてくれている。
この人は、どれだけ心が広いのだろう。教師、という職業柄、彼が新任のころから今まで
高校生に鍛えられてきたその心の広さ、というのもあるだろうが、彼の場合は生まれもっての
寛容さ、が、性質にあると思う。
首元の淡いピンク色のスカーフを結ぶ手をふと止めて、彼のひんやりとした手がこの首すじに
触れたのはいったいいつの頃だったろう、と思わず考えた。
3月?4月?それとももっと前?
それほど、彼と会ってないし、会っても食事だけ、という慌ただしい関係が続いているのだ。
春の婚礼シーズンが少し落ち着いたら、絶対に彼との時間を長く持とう。彼が低い声で淡々と
話す、実は抱腹絶倒の新学期の話を、ベッドに寝転がってずっと聞こう。
「丘の上の教会」の駐車場に車を停め、一歩外に出ると、そこはすでに明らかに別世界、異世界
だった。
建物のいたるところに溢れる生花。美しい、パリッとした洋服に身を包んだたくさんの人たち。
これから始まることへの、期待と嬉しさに誰もが胸を膨らませている幸福のオーラが、この敷地内
全体を包んでいる。
カフェやレストランでは、慌ただしくでも冷静に従業員たちが立ち働く。
私は大きく息を吸い込んで、この愛すべき‘非日常’を演出すべく、婚礼フロアへの玄関を
押し開いた。
やはり、トラブルはあった。
両家の待合室になる、丸テーブルのフロアがまず山口さんのお母様に気に入っていただけ
なかったらしい。
「まだ顔わせもしていないのに、同じ場所で長い時間待たされて。パーテーションなんかの
仕切りはないの?」
チャペルでの式の前には、両家の顔合わせ、という段階があるのだが、確かに朝も早くから、
ずっと手持無沙汰で親類の人たちは同じ部屋で待っている。
これは私のミスだった。
あまりに朝の確認事項が多く、同じ部屋にいるご親族の方たちに一番に顔を出して挨拶し、
両家が顔合わせの前からすんなりと会話できるような、打ち解けられるような雰囲気を出す
必要があったのに、その時間をしっかり持てなかった。
この時に限らず、山口さんのお母様に対して、思わずしどろもどろになりそうになる時は
必ず、枕木さんがさりげなくスッとやってきて、助け船を出してくれる。
高木マネージャーにも大いに助けられた。感動的なチャペルでのお式の後、さあこれから
レストランで披露パーティーという時に、山口さんのお母様から食事の変更を受けた。
「高知の方から来た姉の従妹たちが、この前聞いた時はパスタでいいって言ってたんだけど、
今聞くとどうしてもお寿司が食べたいっていうの。おじいちゃんたちと同じ、和食コースに
変えてもらえないかしら?」
思わず絶句して、気を取り直して笑顔を顔に張り付けた。
「食材の関係で、うまくご希望に添えるかどうかお約束はしかねますが・・・・・・上の者に、
聞いてきます」
「お願いね、3人前ぐらい、余ってるでしょ」
厨房でチェックをしていた高木マネージャーに、極力抑えた声でその変更を伝える。
「おっと」
思わずマネージャーも絶句する。私は瞬時に、お母さまへの断りの言葉を頭の中で構築
し始める。
けれど、すぐに笑顔にもどったマネージャーは、ちょっと待ってて、と言い残して厨房の
奥に消えた。
数分待っただろうか、ニコニコした笑顔で彼が戻ってきた。
「大丈夫、お受けして」
「本当ですか?夜の部の食材が・・・・・・」
「いいんよ、その夜のパーティー分から今取りあえず取っておいて、これからすぐに誰かを
市場に向かわせてまた新鮮なものを調達してくるから」
「・・・・・・すみません」
思わず声が消え入りそうになった。この殺人的に忙しいスケジュールの中、厨房で一人
減ることがどれだけの痛手か。それが分かるだけに、もう身が縮む思いだった。
「こういったことが起こることを予想して、私が直前まで何度も食事の変更はないかと、
お客様に声を掛けておくべきでした。念を押しておくべ・・・・・・」
「大丈夫、大丈夫。よくあることだから、こっちもだいたいいつもそれを予測して、食材には
余裕を持たせてるんだけどね。今日は仕入れの段階から数がギリギリだったから。スムーズ
に対応できずに、ごめんね」
逆に謝られて、私は喉にぐっと何か熱いものが込み上げてきた。
私のその表情を素早く見逃さなかった高木マネージャーは、ニヤっといつもの含み笑いをして
私の背中をバン、と叩いてこう言った。
「先は長いよ。披露宴が一番長い。気合い気合い」
もうそれからは、私の記憶も途切れ途切れのようなものだった。
常に時間との勝負。でもそんなせかせかした態度は見せられない。突発的な出来事にも、
笑顔で対応を心がける。
披露宴も終わりに近づいてきた時、ふっと、私は会場の後方から、山口さんに目をやった。
いつも顔色が悪く沈んだようなイメージの彼女だったが、今日の山口さんは少し違った。
晴れ晴れ、とした笑顔が、眩しかった。
そうか、いつも顔色が悪かったのは、このお式に対する緊張からきていたものだったんだ。
割と自分たちの意見が反映される、自由にプランをたてられるこの「丘の上の教会」での
結婚式を決めたその時から、「自分たちで作る」ということがとてもプレッシャーになっていた
んだ、と、今になって改めて感じる。
私にとっては、挙式を作り上げる、という作業はもはや当たり前のことになってきているけれど、
新郎新婦にとっては一世一代の、とてつもなく緊張を強いられることなんだ、ということを、
彼女のおかげで改めて思い知った。
けれどそれもこれも、彼女は乗り越えてきて、今本当に楽しんでいる表情をしている。
よかった。楽しんでもらえてよかった。がんばったね、山口さん。
あたりのざわめきがふっと私の耳から遠ざかり、ただ山口さんへのねぎらいと不思議な
幸福感が私を包んだ。
その時何かを感じて、あたりに目を凝らした。
ここ、私が立っている会場の後方に、柱の陰になるような死角がある。そこに、山口さんの
お母様が会場に背を向けて、嗚咽を漏らしていたのだ。
衝撃的だった。先程まで気丈に、お互いの親類縁者へそつのない気遣いを振舞っていた
お母様と、私たちに強い口調で色々と注文をつけていたお母様と、同一人物とは思えない
ぐらいに、小さい背中を向けて泣いていた。
「・・・・・・」
思わずそちらへ行きかけて、一瞬躊躇した。他人には踏み込めない、お母様なりの清い
空間がそこにあるような気がして、近づけなかったのだ。
そういえば、以前山口さんが話してくれたことを思い出す。
山口さんのお父様は、彼女がまだお母様のお腹にいるときに交通事故で亡くなっている。
彼女を含め3人の子どもを成人まで育て上げるために、お母様は昼も夜も、いったいいつ
寝ているんだろう、と山口さんが不思議に思っていたぐらい一生懸命働いた、と聞く。
そこまで大事に育てた娘が嫁ぐのだ。
挙式に、何か口の一つも出したくなるのが心情だろう。一言、二言あっても、お母様としては
当然のことだし、またお母様にはその権利がある。
私たちスタッフは、それにいちいち目くじらを立てずに、大いに聞いてあげる必要がある。
甘んじて、親御さんたちの気持ちを受けとめて、さらにその上を行く「いいお式」ができるように
努力していく。これが、私たちの役目なんだ。
思わず私の目に涙が浮かんだ。お母様を、抱きしめてあげたくなる。
お母様、今日はお気に召していただけましたか。納得のいかないことは、もうございませんか。
そう、抱きしめて聞いてあげたい。
そこへ、お母様の様子に気が付いた親類の男性が近づいて行った。今までの苦労や気持ちを
身内だけに充分に分かっているのであろう、うんうん、と頷きながら、お母様の背中をさすって
やっていた。
優しく、さすってやっていた。
ハーブガーデンに出ると、正午の日差しが眩しいぐらいだった。佐伯さんのハーブの青さが目に
しみる。
披露宴を無事終え、新郎新婦、参列者たちがガーデンに出てきて、おのおの写真を撮ったり
談笑したりと、帰るまでのひと時を名残惜しそうに過ごす。
山口さんは、あの淡いクリーム色の帽子をかぶり、健康的な笑顔で友人たちと写真におさまって
いた。
帽子についたパールや青いビーズが、初夏らしくてとても素敵だ。
私はお客様たちの邪魔にならないように、ガーデンへの出入り口付近に控え、その様子を
見つめる。
親族の人たちのタクシーの手配などで忙しく動き回っていた山口さんのお母様が、ふと私に
気づいて近づいてきた。
「担当の方・・・・・・」
「はい、今日の担当の夏八木と申します」
「今日は色々と注文して、ごめんなさいね」
あの、柱の陰で泣いていた方と同一人物とはとても思えない、気丈ないつものお母様だ。
「いえ、とんでもございません。お母様のご納得いただけるお式になりましたでしょうか」
「ええ、とても心のこもったお式だったと、みなさんにおっしゃってもらいましたよ」
「お嬢様の笑顔が、全てを物語っていらっしゃいますね」
私が友人たちと談笑する山口さんの眩しい笑顔を見つめながらそう言うと、お母様は
ちょっと驚いたような顔をして私を見て、そして視線を自分の娘に移した。
「そうね・・・・・・、あの子のあんな笑顔、めったに見れないから・・・・・・幸せなんでしょう、
よかったわ」
しみじみと言ったその言葉に、私も心がじん、として、お母様とともに山口さんの美しい
姿を眺めた。
自分を見つめる私とお母様に気がついた山口さんは、さらに今まで以上の輝くばかりの
笑顔を見せながら、小走りにこちらにやってくる。
帽子に付いたパールが、日差しにきらりと反射して、思わず私は目を細めた。
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