
山口さんの乗った車が、教会の敷地内から見えなくなるまで何となくぼんやりと立って見ていた私は、
急に新堂さんの顔を思い浮かべた。
なぜだか分からないが、何か1つ終わってホッとしたからだろうか、突然脳裏に彼の顔が浮かんだ。
同時に、今朝早くメールをもらっていてその返事を返していないことも思い出して思わず慌てる。
いつもこうだ。彼との連絡を密に取ろうとしても、ついつい私の意識は仕事の方へ引っ張れ、結果、
新堂さんは何度待ちぼうけをくらったことだろう。
それはメールであったり、実際の待ち合わせであったり。
それでも嫌な顔1つせずに私に相対してくれる彼は、やはり大人なんだといつも思う。
「今日の休憩時間に、絶対メール送らなきゃ」
と、私は口に出して言った。
フロア内に戻ると、ちょうど荒金さんと徳山さんが打ち合わせを終えて歩いてくるところだった。
笑いながら談笑して歩く2人をさっと見て、なかなかうまくいったのね、と私は嬉しくなった。
徳山さんのようにイメージがしっかりしていてしかもはっきりした性格の人とのお花の細かい
打ち合わせは、荒金さんぐらいのプロでないと難しいだろう、と最初から思っていたので、改めて
荒金さんの誰をも魅了するフローリストとしての才能と、その屈託のない人柄がこの業界で人気
の理由なんだな、と納得する。
「夏八木さんは、自分の結婚式の時はこういうフラワーアレンジでやりたいっていう夢は、
あるの?」
私と七海がデスクに座って手元の事務処理を続けている間、私の前に座ってコーヒーを飲み
ながら荒金さんがぼんやりとした声で聞いてきた。
私ははっとする。
手元のボールペンを意味もなくこめかみに持っていって、しばし考える。
「自分の結婚・・・・・・自体、まだ考えられないんですよね」
「へえ、ブライダルアドバイザーしてると、そういうものかな」
「ううん・・・・・・職業柄、というわけでもないんでしょうが。まだ仕事が楽しいので」
「まあね、仕事が楽しいうちは、結婚しないが吉だね。絶対後悔が出てくるから」
「荒金さん詳しいですね。ご経験からですか?」
七海が、横槍を入れる。荒金さんがコーヒーをゴクリ、と飲み干して、勘弁してよ、俺は独身!
と、七海に笑う。
「夏八木さん、俺と結婚したら挙式の花代、全部タダだよ」
私は目を丸くして、目の前の男性を見た。ニヤニヤ、と笑っている。この人は、突然軟派に
なる。
「そうですか。それは魅力的」
「おまけに、この式場ですれば社員割引でもきいて、尚更お得よ、美香」
七海が更に言う。私はこの2人に遊ばれ始めたら長いので、ハイハイ、と話半分に手元の
仕事に集中した。
木曜日。山口さんとは打ち合わせの時間、午後5時になってもなかなか現れなかった。
先日のこともあったので、私は少々不安になる。
またなにか、トラブルでもあったのだろうか?
デスクでじりじりと待っていても、すぐ隣でお客様と打ち合わせ中の七海に悪いので、私は立ち
上がって丸テーブルのフロアに向かった。
そこでは枕木主任が、今週末挙式を向かえるカップルと最終の打ち合わせをしている最中
だった。
「ここまで来たら、もう後はすることがないですよね。司会者の方とも打ち合わせ終わったし、
お料理のことも、余興のことも、引き出物のことも終わったし。音楽のMDも渡しましたよね」
新婦の卵が、ふう、と大きく息を吐いて言うと、隣に座っている新郎の卵も、うん、と頷いて
いる。
寄り添って座っている2人からは、ともに長い時間を準備に費やしてきた同士のような、
ともすれば戦友のような雰囲気が漂っている。
枕木主任は微笑んでそんな2人を見ている。そして相槌をうつ。
「そうですね、全て終わりましたね。後は、前日に私のほうから最後の確認でお電話を
させていただくだけです。他の細かいことは、私たちにおまかせください。お2人は、少し
ゆっくりしてください」
「ゆっくりしようと思っても、‘何かしなきゃいけないんじゃないか’って、常に焦ってます」
新婦の卵の言葉に、その場の皆が笑った。入り口で立っていた私も、思わず笑う。
枕木主任は、優しく微笑みながら、そのまま談笑の延長、のようにさりげなく切り出した。
「・・・・・・お2人がしなくてはいけないことは、ただ1つだけ。ご両親への最後の親孝行
ですよ」
2人と、入り口の私も思わずはっとした。
枕木主任は、手をテーブルの上の資料から下ろして自分の膝の上に乗せた。そして、
背筋をしゃん、と伸ばした。
「私のような、結婚式場の人間が言うのもおかしいのですが、今お2人にとって今週末の
お式が全て・・・・・・命、というか、それしか考えられないことだと思います。けれど、後から
振り返ってみた時に、この結婚式というのは、あくまで長い結婚生活の通過点にしか過ぎ
ない。その通過点に目を奪われるあまり、目先の本当に大事なこと、今しかできないことを、
忘れてしまって欲しくないんです」
「今しかできないこと・・・・・・」
男性が呟く。そして2人は顔を見合わせ、コクリと頷いた。女性が、小さな声でこう答えた。
「今はまだ彼も私も、それぞれ両親の家の子供です。今しか、本当の意味での親孝行は
できないかもしれないですね・・・・・・」
それは本当に小さな声だったが、しっかりとした響きを持っていた。
私は胸の奥がじん、とした。
結婚式を挙げる若い2人には、まだまだ見えないこと。
年月が経ちやっと気づくような、自分の両親への感謝の気持ち。
それをあえて、今考えるように諭す枕木主任は、やはり私にとって常に一歩も三歩も先を
歩いているような存在なんだと、改めて思い知った。
私はそっと、その場を離れた。と、オフィスで電話が鳴っている。慌ててとると、山口さん
だった。
「夏八木さん、本当にすみません、もう5時15分ですね」
「どうされました?私のほうは特に予定はつまっていないので大丈夫ですが、何かあり
ましたか?」
「実は、仕事が長引いて。まだまだかかりそうなんです」
「よろしいですよ、待ちます。何時ぐらいならおいでになれそうですか?それとも日を改め
ますか?」
「6時には行けそうなのですが・・・・・・それでもよければ、今日お願いできますか」
「大丈夫です、かまいません、6時ですね」
「席辞表と席札が昨晩できあがったので、どうしてもチェックを今日してもらいたくて」
「それはお疲れ様でした。お待ちしていますよ」
しかし電話を切ると同時に、私は顔が思わず青ざめた。今日は、仕事を午後6時の定時に
終え、6時半に新堂さんと会う約束があったのだった。
ああ、どうしよう。今更山口さんには言えないし、けれど今回新堂さんの約束をキャンセル
すると、これで連続3回目になる。
いけない、こんなことではいけない。でも、仕方がない。
私は控え室に行き、ロッカールームからバッグを取り出し、携帯電話を手にした。
今は5時20分。彼は職員室にいるだろうか。メールでは申し訳ない。私は思い切って
電話をかけた。
電話口の背後は、何やらざわめいている。恐らくほとんどの教師たちが職員室に帰って
きているのだろう、そんな喧騒を感じた。
その中で、新堂さんの低い穏やかな、けれど残念そうな声が聞こえる。‘急な仕事なら
仕方がない’と言ってくれたものの、口数は少なかった。
彼は全く私を責める言葉を言わないので、逆にその分彼にストレスをかけているのでは
ないだろうか、そうならば声を荒げて怒ってくれてちっともかまわないのに、彼の気が楽に
なるならば・・・・・・、と、私は少々自分に都合のいいことを考えた。
それもこれも、彼を信用している上で思うのだが、‘もし’と考え始めるともう恐ろしい
ぐらいに最悪な状況が頭に浮かぶ、それほど恋愛する上で失礼な約束破りばかりして
いる、私だった。
午後6時を少し回った頃。婚礼の玄関に入ってきた面々を見て、少々私は言葉を失った。
山口さんと、彼である野木さん。野木さんが、完成した席辞表と席札が入っている段ボール
箱を抱えている。そして、その隣に年配の女性。
「・・・・・・夏八木さん、母です。急遽、一緒に来るって言うものですから・・・・・・」
暗い顔で山口さんが言う。
「お母様ですか、初めまして。このたびお式を担当させていただいております、夏八木と
申します。この度は、どうもおめでとうございます」
「こちらこそ、お世話になっております」
山口さんのお母様は、彼女の話から想像していた女性とは随分と違って、穏やかそうな
雰囲気の人だった。
けれど、一番後ろに立っている山口さんの顔が、このフロアの優しい照明の色のせい
ではなく、もっと、ほの暗い色になっていることに私は気がつき、どうしたものか・・・・・・と
密かに思案した。
photo by ミントBlue